ハピネス

2014.05.01 UP

本物と偽物の区別がつかない怪しい時代の生き延び方

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先日テレビを観ていたら、コメンテーターが「今の時代は、本物と偽物の区別がつかない時代になった」というようなことを言っていました。

それは、大人の責任であり、本来は大人が物事の本質を見せるべきところを見せなくなったからだとも言っていました。

 

時間をかけてひとつのことを追求することがむつかしい時代。SNSで数の原理をちょっと応用したらそれだけで食えることもある時代。「偽物が跋扈する時代」をこういうふうに定義するなら、それに対する反論を持つひとも多いのではないかと思います。

だって、悠長に「じぶんの技」を磨いていたのでは生活できないから。だって、大企業からいち個人までが「にわかブランディング」に傾倒していて、じぶんもそこに参加しないと不利になるから……などなど、いろんな意見があると思うし、ぼく自身を振り返ってみても、そのような危機感を抱いていないとは言い切れない。

 

なにが本物なのか? たとえばゴッホの絵は誰もが認める本物だろうと思う。イチローのバッティングも誰もが認める本物だろう。2010年に芥川賞を受賞した西村賢太氏の『苦役列車』という小説も本物だと思う。

ゴッホもイチロー選手も西村氏も、最初から本物を目指していたのかどうかは、よくわからない。ただ誰よりも絵を描くことが好きだった。野球が好きだった。文章を書くことが好きだった。こういうことは言えるのではないかと思います。

好きで続けて、食えない不遇の時代をどうにか乗り越えて今がある。つまり「好き」と「やせ我慢」が「本物」をつくっているのだと、ぼくは思っています。

 

やたら本物を崇拝する考え方と、偽物はまかりならんという考え方は、どちらもよく似ている。「好き」で「やせ我慢」しつつ、物事をやる最初の姿というのは、言い方は悪いけれど「そのへんのあんちゃんやねえちゃんが地に這いつくばって寡黙になにかをやっている姿」にほかならない。

いつの日か本物にならんとして社会的に不遇な時代をも甘んじて受け入れる。いつの日か本物になれなくても、それはそれでしかたないと思いつつも、今日も明日も努力する。

 

本物が生まれる過程を思えば、誰だって偽物が100%良くないとは言い切れないだろう。そんな食えるか食えないかわからないような努力をして、なれるかどうかもわからない本物を目指すのであれば、私は偽物でいいと思うひとを、あなたは批判できますか?

 

好きなことをとことんやる。食えなくてもとことんやる。こういうことは、社会が強制してやらせることではない。いつの時代も親の反対を押し切ってでも「やってしまうこと」であり、ゆえにどの時代にも本物は一定数、世の中にいるのだろうし、そう思いたい。

 

Photo by Pinterest

ひとみ しょう

ひとみしょう

(小説家/作詞家/ANGIEシニアライター)

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